雑記

ニヤニヤ泣いている

パン屑と努力と自己責任の話

スナック菓子の袋の底に溜まった粉。オーブントースターのパンくずトレイに落ちたパン屑。

本来は一緒に食べられるはずだったそれを処分する度に、やるせない気持ちになる。

 

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みんな、努力の力を信じ過ぎていると思う。

 

わたしもそうだった。部活も受験も就活もその後の仕事も人間関係もなんでも、上手くいったことは自分の努力のおかげだし上手くいかなかったことは自分の不努力のせいだと思ってた。そういうことにしたかった。運とかいう得体の知れないものに甘えたくなかった。高校生の頃、運が悪いなあと感じたときはいつも"運も実力のうち…"と戒めのように唱えていたっけ。

 

今でも自分の上手くいかなかったことは、全部自分のせいだと思ってる。

幸いわたしは自分のせい、で済ませられる程度の不幸や失敗にしか今のところは見舞われていない。

 

だけど自分が上手くいったことってほんとに自分の努力のおかげなのか?って分からなくなってきた。

特別裕福でなくとも貧困ではない家庭に五体満足で生まれて、文化的資本にもある程度恵まれて、大学に行かせてもらえて、就職氷河期じゃない時期に卒業できて、人間の尊厳を保てる職場に拾ってもらえた。

もっと恵まれた人間がたくさんいるなんてことは十二分に知っているし、もちろんある程度頑張ってきたと言えることだってあるけれど、それでも運としか言いようのない要素がいくつもある。

 

きっと本当に実力があって人の何倍も何倍も頑張れる人は逆境の中でもそれを乗り越えていけるのかもしれない。

けれどわたしは、必要とされる努力量がわたしにとって適量なコースでスタートを切れただけで、そして今まで大きな事故なんかも起こらずにゆるゆる走ってこれただけで。

わたしは人よりもずっと努力量が必要とされるコースで頑張り続けられる自信はないし、例えば途中でなんらかの事故があって怪我を負ったとして、それでも走り続ける気力があるかと聞かれたら、正直ない。

 

 

きっと他人の困窮を"自己責任"の一言で片付けられる人は、別に冷たい人とか鬼のような人とかばかりじゃなくって、自分がきちんと努力して結果を出せた人が少なからずいるのだと思う。

しんどい境遇にいても、人よりも多い"必要とされる努力量"をこなしてこれた人たちのことを「想像力がない」と言って責めたとしても、きっと事態はもっと悪くなるだけだ。難しいね。

 

理想論だけで様々な問題が何とかなるとは思えないし、努力した人がきちんと認められて報われる社会であってほしいとも思う。

だけど、もうちょっと、自分の周りにある当たり前を疑ってみたり、他者の境遇に対する想像を膨らませてみたり、そういうことがもうちょっとずつでいいから広まれば、今みたいな窮屈な感じはなくなるんじゃないかなあ、なんて、こんなインターネットの片隅で呟いててもしょうがないのだけれど。

 

 

だらだら書いたけれど、同じものを達成するにしても必要とされる努力量は人によって全く違うし、それが決まるのは運的な要素もあるから、自分の物差しで他人が努力してないって決めつけるのはよくないよねぇという話でした。

 

 

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他と同じように食べられるべくして生まれてきたのに、成分的なものは他と全く一緒なのに、たまたま場所が悪くてドロップアウトを余儀無くされるパン屑たち、まあそれを人間の世界に例えるなんてあまりにも安い上に失礼で傲慢な比喩だとは思うんですけども、いつもこういうことをほんのり思いながらわたしは今日も大好きなイングリッシュマフィン(粉めっちゃ落ちる)を食べるんです。