雑記

ニヤニヤ泣いている

エイプリル

京都に来てから5年が経った。

一人暮らし暦も、早いもので6年目突入。

 

なんとなく、京都に来てからのことは全部最近の出来事としてカウントしてしまっているけれど、2012年なんて冷静に考えて大昔だねえ、私まだガラケー使ってたしわけのわからん短い丈のキュロットばっか穿いてたし…ってハッとして、5年経つってことの重みを考えたりしてしまう。

 

 

ああ、春だ。

 

...

 

5年前の春、大学で自分の学域のオリエンテーションを受けたときに聞いた教授の言葉が、今でも印象に残っている。

 

「成長するということは、失うことを噛み締めるということ」
「人間にもともと居場所なんてない」
「向上・増大・前進というイメージで生命や人生の歩みを捉えるのは狭い」
「出会いは否応なく別れを胚胎している」

 

 

私が属していたのは幅広い意味での教育を学び人間を見つめ直す、そんな学域だった。

当時、"教育"という言葉にキラキラした胡散臭さを感じていた私にとって、教育学の教授がそんなことをハッキリと言うのはなかなか衝撃的だったし、ああここに来たのはやっぱり間違いじゃなかったって思ったものだ。

 

...

 

春、特に4月という季節はどうしても、世の中全体が背伸びしているように見えてしまって、どこか無理を伴って浮かれているように見えてしまって、少しだけ苦手だ。気候はサイコーなんだけど。

全てが眩しくて、そのテンションについていけない自分がちょっと惨めで、同時にどこか流されない自分みたいなものに誇らしくもなって、惨めなのに誇らしいっていう歪んだ気持ちがアホらしくってまた惨めになって。

そんな感情のデフレスパイラルがサイコーの気候とは裏腹に起こってしまいがちな季節。

 

 

そんな季節に、ぽわぽわしてたけれどどこか無意味にとんがっていた当時の私があの話を講義で聞けたことは、きっと幸運だったと思う。

 

...

 

この5年で私は多少なりとも変わった。

根本的な部分はおそらくきっとそんなに変わらないけれど、物事を見る視点はそれなりに変化した。

昔は見えていなかったものに気が付いて、それによって持てなくなった感情も、初めて知った自分の心の動きもある。自分にこんな醜さがあったんだって驚いた日もあったし、昔の己の軽薄さを苦い顔で笑えるようになった日もあった。

 

 

世間一般的に良いとされている要素だけ残して増やして大人になれたらどんなにいいだろうって何度も何度も思ったけれど、失ってしまったものも含めて、受け入れていくことができるようになりたいな。なれるかなあ。

あの言葉を本当の意味で消化するにはまだまだ時間がかかりそうです、先生。

 

 

エイプリル・フールだというのにまだまだ肌寒かった昨日、入学式帰りの大学一回生をたくさん見かけて、4月特有の憂鬱に浸りながらそんなことを考えていた。 

 

 

ああ、春だ。