雑記

ニヤニヤ泣いている

綺麗な人

先日初めてマルチ商法のようなものの勧誘、というかプレゼン、というかをされた。その人が副業という単語を意味ありげに放つので、会話を掘り下げるつもりで副業って何されてるんですか?と訊いてみたらどうもスイッチを入れてしまったらしい。よくありそうな「年金には頼れない、会社は守ってくれない」の話から延々とトークのマシンガンを喰らう。途中鞄からしれっと本も何冊か取り出して見せられて、(いや今日副業じゃないほうの仕事だけど常に持ち歩いてるんですね)と心の中ですこし笑ってしまった。

 

今まで色々やってきたけどこれは違うんだ。究極なんだよ。

 

たしかにそれは、

あなたがこれまでにやってきたア◯ウェイとかニュー◯キンとは違うのかもしれない。

それにわたしも真っ向からそういうビジネスモデルを否定する気も別にないです。

 

ただわたしがやるかどうかって考えた時に、人を紹介することで報酬を貰う、また紹介した人が誰かをまた紹介して…ってシステムにはなからねずみ講だ!ってアレルギー反応を起こす人が多いこの国で、ましてやそういうものに懐疑的な人の多いわたしの交友関係の中で、わたしはこれまで築いてきた大事な大事な関係や信用を失うリスクを背負いたくはないなとだけ。

マルチ商法とは信用を売ってるシステムだと、あくまで個人的には思う。信用はまわりまわってきっと目の前のお金よりもわたしを助けてくれると思いたいし、少なくともわたしの生きてる環境には向かないかな。

 

と、そんなことを思いました。

 

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わたしは保守的で悪い意味でごくごく日本人的な人間だなといつも思う。日本人がどうのとか主語の大きな話はナンセンスだししたくないけれど。

ものごとの価値判断基準は他人の目と、自分が傷つかないかどうか。新しいものはとりあえず疑ってかかる。しょうもねえなと思うけどそうやって生きてきたのだからしょうがない。

 

他人の反応と心の中を、想像できないながらも想像して、そのたびに怯えて、人と出会うたびにこの人は自分を傷つけない人かどうかととにかく疑って、そうやって生きてきた人間からしたら、先述のマルチ商法だったり、性格変えますよ系の自己啓発セミナーだったり、新興宗教だったり、"世間一般的には怪しまれやすいもの"にハマって、ましてやそれを人に勧めてまわる人って、どういう人なんだろうってとても気になってしまう。

 

そしてそういう人たちを見るたびに、別に悪人だとも、頭が悪い人だとも、全然思わないんだよなあ。むしろ人間が好きで、純粋で前向きで、それでいて何か悩みやコンプレックスがあるのかな、って人が多い気がする。あくまで体感的にだし、人の事情や心の中を勝手に憶測するのは下品だと思うけれど。

宗教の冊子を駅前で持って立ってる人たちはみんな、こんなクソ暑い日にも嘘みたいに優しい笑顔と綺麗な姿勢でいるし、おそらくその宗教だったんだろうなっていうかつての同級生もまた、嘘みたいに優しくて純粋でまっすぐな子だった。

 

そんな人が、そんな綺麗な人が、わたしのような人間に胡散臭えなと思われてしまうのって、なあ。

 

 

何かを信じることで誰かが救われているという事実とそれは個人の範囲に留めてどうか他人のことを巻き込まないでくれという思いと、だけど他人を巻き込もうとする働きかけで救われる誰かもまたいるのだという事実と、それでいてそういう人たちを騙している人たちが上層部にはいるのかもしれないという憶測があって、よくわからなくなる。

 

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ところでオウム真理教の死刑囚の死刑が全員執行されたらしい。

彼らは決して許されないことをしてきているけれど、何かを信じてすがってしまった末路がそれって、どういう気持ちだったんだろうな。

 

 

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ちなみに先日のマルチのおじさんから来ていたメッセージ承認リクエストは無視したままです。わたしのような性格の意地汚い人のことは放っておいてそういうあれが通用するある意味綺麗なコミュニティで幸せになってほしいです。綺麗な人よ、がんばれ。

ただの日記(ピンク・フロイドのTシャツを着たお兄さんに捧ぐ)

朝の通勤路で、電話ボックスが派手に荒らされていた。ガラスの破片がきちんと舗装された歩道にたくさん散らばってて、その光景がアンバランスで綺麗だと思った。そんな中、前から歩いてきたどちらかといえば口数の少なそうな感じのお兄さんがピンク・フロイドのTシャツを着ている。それがなんだかとってもよかったんです、素敵な朝だ。そういえばピンク・フロイドって実は聴いたことなかったな。粉々になったガラスを横目に、音楽ストリーミング配信サービスでピンク・フロイドと検索する。便利な世の中やでほんまに。Comfortably Numbって曲かっこええですね、聴くきっかけをくださってどうもありがとう。お兄さんはわたしがあなたのTシャツを見てピンク・フロイドを聴くに至ったことを想像すらしていないだろうなって思ったらなんだかニヤニヤしてしまったし、電話ボックスを荒らした犯罪者もこうやってブログに書かれていることを知らないだろう。

 

自分の何気ない行動が知らないところで誰かの日常を少しだけ変えているということ。それってもしかしたら素敵なことかもしれない(電話ボックスは荒らしたらあかんけど)

自分の一挙一動が他者に何かしらの影響を与えてしまうことがわたしはずっと怖かったけれど、きっと多分そんなことはない。そういえば会社の同期はわたしのチョコミント好きに影響されてチョコミント味のものにハマっているらしくて、なんだか少し嬉しくなったっけ。

 

そんなことを思いながら、久々にブログを更新しました。誰も読んでないと思ってたけどこのあいだ一日のあいだにたくさんアクセスされてて、どなたか分からないけどありがとうございます。わたしの文章が誰かの暇つぶしにでもなったらうれしいな。

この夏確かに私は向井秀徳に会った

2017年、年の瀬。

 

今年の目標の一つとして、ナンバーガールそしてザゼンボーイズ向井秀徳に会うことを私は掲げていました。

 

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まあ目標というか、できたら一度ライブにでも行きたいなあ、くらいだったんですけど。

 

ナンバーガールは高校2年生のときに買った「サッポロ OMOIDE IN MY HEAD状態」というライブアルバムがとにかく衝撃的で。それまではライブ盤よりも音の綺麗なきちんとレコーディングのされた音源が好みだなあなんて思ってたんですけど、このアルバムはとにかくもう、ライブの場の雰囲気も何もかもを全て閉じ込められたかのようで、イヤホンの向こうからでも熱量がえげつなかったんですわ。

 

 

ナンバーガールはずっと昔に行われたこのライブで解散してしまっていたけれど、とにかくわたしはティーンエイジャー時代に、きのこ帝国よろしくGirl meets NUMBER GIRL状態になれて、いつかは向井秀徳という人間に会ってみたい(?)なあとぼんやり思っていました。

 

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今年のお盆に実家に帰ったときに、豊田市美術館でやっていた奈良美智さんの展示会に行きました。

奈良美智さんについては高校2年生のときに買った手帳が奈良さん柄だったとか、まあその程度だったんですけども、シニカルでポップな絵柄が可愛いから地元の近くでやってるし行ってみようかなと。

 

奈良美智さんの展示会と同時開催で、「OMOIDE IN MY HEAD」の名前を借りた展示会もなされていました。

ナンバーガール好きとしては見なくてはと思い、こちらも観覧してベンチで少し休憩していると、3つ隣くらいの席に限りなく向井秀徳に近い風貌をした中年男性が。

 

いやいやまさか!そんな簡単に向井秀徳に会えるわけがねえ!と思いつつ、iPhoneで画像検索をして何度も見比べるわたし。あんまりジロジロしちゃだめだなと思い、また本人じゃなかったらめちゃくちゃ恥ずかしいなと思って話しかけられないまま、ついに向井秀徳(仮)はどこかに行ってしまいました。

 

IS THIS 向井秀徳?って、聞けなかったなあ、夏。

 

 

別に全然スピリチュアルな体験とかそういうのじゃねえよと思いつつも、奈良さんの手帳を買った時期とナンバーガールのサッポロ OMOIDE IN MY HEAD状態を購入した時期はちょうど一緒くらいだったなあ、なんてこじつけを頭の中でしながら、ふわふわして京都に戻ったのを覚えています。

 

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年末ということで久々に実家に戻って、紅白をだらだら見ている最中です。向井秀徳は出ていませんが、そもそも今年別に全然ザゼンのライブ自体行けなかったですが、この夏にみたあの人は確かに向井秀徳だった。きっと、おそらく。 他に言ってた「肩こりをなんとかする」「仕事をもうちょっとはどうにかする」なんかも含めて2017年の目標、少しは果たせたと思いたいな。あっでも「家事へのやる気の波をなんとかする」は全然達成できていないし、仕事も大してどうにもなっていないので来年はどうにか…。

 

 

終わっていく今年に愛を込めて。

誰が読んでくれてるか知りませんが、みなさん、来年もどうぞよろしくお願いします。

パン屑と努力と自己責任の話

スナック菓子の袋の底に溜まった粉。オーブントースターのパンくずトレイに落ちたパン屑。

本来は一緒に食べられるはずだったそれを処分する度に、やるせない気持ちになる。

 

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みんな、努力の力を信じ過ぎていると思う。

 

わたしもそうだった。部活も受験も就活もその後の仕事も人間関係もなんでも、上手くいったことは自分の努力のおかげだし上手くいかなかったことは自分の不努力のせいだと思ってた。そういうことにしたかった。運とかいう得体の知れないものに甘えたくなかった。高校生の頃、運が悪いなあと感じたときはいつも"運も実力のうち…"と戒めのように唱えていたっけ。

 

今でも自分の上手くいかなかったことは、全部自分のせいだと思ってる。

幸いわたしは自分のせい、で済ませられる程度の不幸や失敗にしか今のところは見舞われていない。

 

だけど自分が上手くいったことってほんとに自分の努力のおかげなのか?って分からなくなってきた。

特別裕福でなくとも貧困ではない家庭に五体満足で生まれて、文化的資本にもある程度恵まれて、大学に行かせてもらえて、就職氷河期じゃない時期に卒業できて、人間の尊厳を保てる職場に拾ってもらえた。

もっと恵まれた人間がたくさんいるなんてことは十二分に知っているし、もちろんある程度頑張ってきたと言えることだってあるけれど、それでも運としか言いようのない要素がいくつもある。

 

きっと本当に実力があって人の何倍も何倍も頑張れる人は逆境の中でもそれを乗り越えていけるのかもしれない。

けれどわたしは、必要とされる努力量がわたしにとって適量なコースでスタートを切れただけで、そして今まで大きな事故なんかも起こらずにゆるゆる走ってこれただけで。

わたしは人よりもずっと努力量が必要とされるコースで頑張り続けられる自信はないし、例えば途中でなんらかの事故があって怪我を負ったとして、それでも走り続ける気力があるかと聞かれたら、正直ない。

 

 

きっと他人の困窮を"自己責任"の一言で片付けられる人は、別に冷たい人とか鬼のような人とかばかりじゃなくって、自分がきちんと努力して結果を出せた人が少なからずいるのだと思う。

しんどい境遇にいても、人よりも多い"必要とされる努力量"をこなしてこれた人たちのことを「想像力がない」と言って責めたとしても、きっと事態はもっと悪くなるだけだ。難しいね。

 

理想論だけで様々な問題が何とかなるとは思えないし、努力した人がきちんと認められて報われる社会であってほしいとも思う。

だけど、もうちょっと、自分の周りにある当たり前を疑ってみたり、他者の境遇に対する想像を膨らませてみたり、そういうことがもうちょっとずつでいいから広まれば、今みたいな窮屈な感じはなくなるんじゃないかなあ、なんて、こんなインターネットの片隅で呟いててもしょうがないのだけれど。

 

 

だらだら書いたけれど、同じものを達成するにしても必要とされる努力量は人によって全く違うし、それが決まるのは運的な要素もあるから、自分の物差しで他人が努力してないって決めつけるのはよくないよねぇという話でした。

 

 

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他と同じように食べられるべくして生まれてきたのに、成分的なものは他と全く一緒なのに、たまたま場所が悪くてドロップアウトを余儀無くされるパン屑たち、まあそれを人間の世界に例えるなんてあまりにも安い上に失礼で傲慢な比喩だとは思うんですけども、いつもこういうことをほんのり思いながらわたしは今日も大好きなイングリッシュマフィン(粉めっちゃ落ちる)を食べるんです。

 

 

 

雑感

インスタ映えって言葉にもにょもにょする。

より正確に言えば、インスタ映えを馬鹿にする風潮にどこか窮屈さを感じる。

綺麗な写真を撮るって趣味として成り立つことだと思うし、自分の撮ったものって誰かに見てもらいたいし、あわよくば賞賛されたいって欲は別に普通じゃないのか。インスタ映えを最優先させた結果人に迷惑をかけたりモノを粗末にしてしまってる人たちのことは一先ず置いておいて、一般的なインスタグラマーを過剰に叩く必要はあるのか。それで経済も回ってるんやし別にいいのでは…。

まあそうは言っても集客の為に「インスタ映え」って言葉を使うのはわたしが集客する側なら謎のプライドが許さないと思う。それは目的ではなく結果であってほしいし、百歩譲って目的とするにしても手段にはしてほしくないし、手段にするのであれば言葉にしたらあかん概念やろ、とも思う。うん。だってそんな言葉で釣られるの馬鹿にされてる感が半端なくないですか。お前らどうせこういうの好きだろ〜みたいな。

承認欲求の塊の人間のことはわたしも散々馬鹿にしてきたけどそれはきっと同族嫌悪からきてたんですわ。自意識でがんじがらめになって目糞鼻糞を笑う状態に陥ってるよりも、自分の欲求に素直になったほうがまだマシだしダサくないやろって思います。わたしはこれからもインスタ映えする可愛い飲食物が好きだしツイッター映えする適度な不運や恥ずかしエピソードに見舞われたらここぞとばかりに呟いてしまうよきっと。くだらないなんて分かっているけれど。

 

 

おかずクラブのオカリナがテレビで「告白なんてしたことがない。みんなすごい」「(好きって気持ちをどう処理してるの?と聞かれ)好きじゃなくなるまで好きで…」って言っていたらしくってめちゃくちゃ共感した。別に恋愛に限らずあらゆることが私にとってはそうで、なんとなく自己処理して自然に消えていくのを待つだけだ。拒絶されるのが怖いっていうのもあるのだろうけどそもそも自分の欲望が実現されることを強く望んでない、自分の欲望には実現させたいと願うほどの価値はないと考えてしまっているのだと思う。オカリナもそうだったのかな。笑うシーンだったみたいだけど、なんだか色々考えてしまうな。

 

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謎の二本立てみたいになってしまった。

今日も有給です。最高か。

23才の夏休みも終わってしまった僕らは

24才になった。

 

"◯◯才になったら、今度こそこうしよう"って毎年思い続けてはや24年。それもだんだんどうでもよくなって、ひとつ年をとったからどうにかなれるなんてことはなくただ24才になったいつものわたしがいるとしか思わなくなった。

 

23才のスタートは結構ドン底で、自分はどうしてこんなに頭が悪いのだろう、人に気が使えないのだろう、社会不適合なのだろう…って本気で思っていて、仕事がしんどかったな〜っていうのを覚えている。まあそれから1年、曲がりなりにも労働に対する精神状態の前向きな変化や不文律的な地位の向上もあって、結構頑張った方なのではないでしょうか、わたしとしては。

 

とはいっても24才になったところで変わらず昼夜の滅茶苦茶な生活を送ってしまってるし、無意味なネトストはやめられないし、思い込みは変に激しいし、何年も前のことをほじくり返しては勝手に落ち込んでしまうし、思春期の頃から変われていない部分も多々あるなあ。アラサーになっても四十路になってもおばあちゃんになっても陰湿ネットサーファーやってんのかな。更年期もくるだろうし、ゾッとするな。

 

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本来の意味で山無しオチ無し意味無しの文章だ。最近は結構ずっと元気なのでブログが書けません。クリエイティブなんて大それた言葉を使うのは憚られるけど、負の原動力がないときに何かを生み出すのは素人のわたしには難しいようです。

 

まあ24才になった記念に。四捨五入したらギリギリハタチ、気を張らず適当に生きてくぞ。

The seventh night of July

どうやら今日は七夕らしい。

 

中学高校と吹奏楽部員だった身としては、この曲を思い出す。

 

酒井格のたなばたは、たしか高校1年生のときにお隣の高校と合同で演奏したんだっけ。

その高校にはトランペットがとっても上手いギャルの先輩がいて、いつも惚れ惚れしていたのを覚えている。

 

"ホムペ" 文化最盛期だった当時、ギャルの先輩のホムペも見つけて、"リアル"も読ませてもらったことがあった。

ある日の投稿に「こっちがどれだけ努力をしているのかも考えずに、あなたに吹けない人の気持ちは分からないなんて言わないでほしい」みたいな内容が書いてあって、それはお話ししたこともない方の、ごくごく私的なつぶやきだったのだけれど、なんだか後頭部を殴られたような気持ちになったなあ。

 

別に楽器に限らず自分よりも上手くいってる人がしてきた努力を蔑ろにしてしまい、まるで初めから結果があったかのように思ってしまうの、わたしの悪い癖なんだと思う。今ならそんな思考回路がいかに愚かかよく分かるよ。

 

 

どうでもいい話だけれど、その高校の定期演奏会にいった日に自身のブログでギャルの先輩が素敵だった旨を書いたらご本人からコメントをいただいてビビり倒したことがあった。インターネット怖い。と言いつつまたブログに書いてしまってるね。すみません。

 

明日は久しぶりに高校時代の部活の先輩に会えるのでなんとなくいろんな事が懐かしくなったとさ。家帰って床で寝て残り物のカレー食ってのロマンチックのかけらもない七夕の夜だったけれど、織姫と彦星は逢えてるとよいですね。おやすみなさい。